泉養寺は東京都江東区の深川を開拓した深川八郎右衛門を開基とする天台宗の寺院です。慶長元年(1596年)八郎右衛門の実兄・秀順法印によって深川元町に開創されました。
医王山無量院と号しますが、医王山は大医王仏、つまり薬師如来を安置していることを意味し、無量院は無量寿如来、つまり阿弥陀如来を安置していることを意味しています。かつて深川の地にあった際は、本堂に阿弥陀三尊、薬師堂に薬師如来が安置されていました。
元禄六年(1693年)に深川猿江に寺地を拝領して移転した際には、境内には立派な蓮池を有し、牡丹蓮と呼ばれる重弁のめずらしい蓮を見に文人墨客をはじめ多くの人々が訪れ、「猿江の蓮寺」として江戸名所図会にも記されておりました。
しかし文政元年(1818年)に浅草の火災で本堂と薬師堂を消失、また安静二年(1855年)、慶応元年(1865年)の大洪水、大正六年(1917年)の洪水と数々の罹災を受け、大正十二年(1923年)の関東大震災による火災によってすべてが灰燼となってしまいました。昭和二年、二十一世・廣謙和尚が現在の地を有縁の地と定め、移転を発願したことにより泉養寺の新しい歴史が始まりました。
度重なる災害のため当初の尊像は消失してしまいましたが、ご本尊である阿弥陀如来は上野寛永寺より勧請され、薬師如来は別棟の瑠璃殿及び本堂に安置されています。
江戸時代後期の天保年間に刊行された、江戸の名所を集大成した江戸時代を代表する地誌です。挿絵を多く用いた、庶民にも親しまれるような書物であり、江戸の景観を後世に残す貴重な資料として知られています。
いも洗い紋は、開基である深川氏の家紋です。
この紋章は、里芋を洗う用具を図案化したもので、深川氏が神事にあたっていたことを意味しています。深川氏がこの地の開拓に着手したおり、住居の傍らに小祠を安置して祭祀をつかさどったことから、この「いも洗い紋」を家紋としたと伝えられます。
泉養寺の開山・秀順法印も深川氏(八郎右衛門の実兄)であり、泉養寺は開創当初から、この「いも洗い紋」を寺紋としていたものと思われます。
元号 | 西暦 | 内容 |
天正年中末期 | ~1591 | 後北条氏の代。 深川八郎右衛門、隅田川の河口デルタ地帯に居住し、開拓にとりかかる。 神明宮の祭祀はこのころといわれる。 |
天正18年 | 1590 | 後北条氏亡ぶ。徳川家康、関東八州の領主として江戸へ入部する。 |
慶長元年 | 1596 | 家康、城下巡視のおり、深川氏の開拓地に赴く。このおり家康の命により、
開拓の地を深川氏の姓にちなみ「深川」と名づけ、開発地主を命ぜられる (『新編武蔵風土記稿』『文政町方書上』)。 秀順法印、深川氏の外護により、泉養寺を開創し、神明宮の別当を兼帯する。 |
慶長八年 | 1603 | 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府をひらく。 |
元和元年 | 1615 | 幕府、宗教統制策として「諸宗諸本山諸法度」を定める。 当山、浅草寺と本末関係を結ぶ。 |
明暦三年 | 1657 | 一月、江戸大火。振袖火事という。深川辺りも焼失する(『武江年表』)。 当山も類焼と思われる。 |
万治年中 | 1658~1660 | この頃、深川氏、砂村方面に八郎右衛門新田(四十丁)の開拓にとりかかり、 居宅を深川本村(猿江の辺)に移す。 |
寛文元年 | 1661 | 十月二十七日、当山開基・深川八郎右衛門歿し当山に葬する。 |
寛文十二年 | 1672 | 松尾芭蕉、江戸へ出府する。 |
延宝八年 | 1680 | 芭蕉、門人・杉山杉風の生簀の番小屋を改造して住む。 後の芭蕉庵。 |
天和二年 | 1682 | 十二月、江戸大火。 八百屋お七の火事という。 当山類焼か。 芭蕉庵も類焼し、元禄五年(1692)再築する。 |
元禄六年 | 1693 | 六月、当山境内地上地となり、深川猿江に寺地を賜わり移転する。 神明宮は旧地に残る。 |
元禄七年 | 1694 | 芭蕉、大阪にて歿する。 |
宝永元年 | 1704 | 八月、洪水。本所深川辺り被害多し(『武江年表』)。 当山も水禍に罹る。 以来、洪水のたびごとに水禍に罹る。 |
享保三年 | 1718 | 秋、七世・慶源法印、梵鐘を鋳造する。 当山の寺運隆昌。 |
寛保三年 | 1743 | 十月、芭蕉の門人・千梅により、境内に「祖翁逍遥之舊蹟」の 塚(碑)造立される。 |
延享三年 | 1746 | 三月、門前町屋建造する。 |
宝暦七年 | 1757 | 清澄町名主の跡式引継ぎに落度があり、七代目深川八郎右衛門が、 深川在方組合一同の罪を引き受けて入牢する。 牢中で病を得て出牢し町預けとなるが、快癒せず。 十一月三十日歿。 菩提寺である当山に葬する。 家名断絶し、家族離散する。 |
宝暦九年 | 1759 | 八月、洪水。諸堂宇、門前町屋大破する(『浅草寺日記』)。 |
安永四年 | 1775 | 七月、当山表門等再建のための説法および助成願書を提出。 |
安永九年 | 1780 | 当山、許可を得て神明宮再建のための富突興行を行う。 |
天明三年 | 1783 | 十二月、深川元町より出火し、神明宮、その門前町屋類焼する。 |
天明六年 | 1786 | 七月、未曾有の大洪水(『武江年表』)。 当山も水禍に罹る。 諸国凶作、大飢饉となる。 |
寛政五年 | 1793 | 六月、当山境内において、十日間の稽古相撲を興行する。 |
寛政九年 | 1797 | この頃より当山の蓮花、重弁となって咲く。 牡丹蓮ともよび、以来季節になると文人墨客をはじめ、諸人群集する (『江戸名所図会』『武江年表』)。 |
享和二年 | 1802 | 七月、洪水。江戸の被害最も甚し。 当山も水禍に罹る。 |
文化四年 | 1807 | 深川氏が開拓した二十七ヶ町村の住民、報恩のため当山にて 七代目深川八郎右衛門の五十回忌法要を営む(『葛西志』)。 以来、毎年怠らず法要を行う(『文政町方書上』)。 |
文政元年 | 1818 | 十月、浅草より出火し、当山本堂、薬師堂を類焼する。 |
安政二年 | 1855 | 十月、安政の大地震。当山も損壊したと推定される。 |
慶応四年 | 1868 | 江戸幕府崩壊。 明治新政府樹立。 元号明治元年に改元。 神仏分離令が布告され廃仏毀釈運動広まる。 当山、神明宮の別当職を解かれる。 |
明治四年 | 1871 | 当山境内地上地(官有地)さる。 |
明治十年 | 1877 | 『寺院明細簿』を提出する。 安置する仏像二十五躯(いずれも木造)の記載あり。 |
大正六年 | 1917 | 洪水。当山水禍に罹る。 |
大正十二年 | 1923 | 九月、関東大震災。 当山諸堂宇焼失する。 |
昭和二年 | 1927 | 現在地(市川市国府台)への移転を発願する。 |
昭和四年 | 1929 | 現在地に本堂と庫裡の一部が完成し、祝賀会を行う。 |
昭和十四年 | 1939 | 第二期工事に着工し、翌十五年(1940)竣工する。 |
昭和五十五年 | 1980 | 本堂、改修する。 |
昭和六十年 | 1985 | 庫院、新築する。 |
平成二十一年 | 2009 | ホームページを開設。 永代供養廟「逍遙廟」完成 |
平成二十三年 | 2011.3.11 | 東日本大震災にて罹災 |
平成二十三年 | 2011.9.21 | 台風15号にて屋根一部破損(震災の影響もあり) |
平成二十四年 | 2012.8 | 本堂屋根 修復完了 |
平成二十六年 | 2014.2 | HPリニューアル |